剣のまほろば1青春編

 江戸後期、日本の剣術事情は大きく変わろうとしていた、型剣術から竹刀剣術への移行期の頃日本有数の名門一刀流中西派も例外では無い。

 竹刀稽古に批判の声もあるにはあった「名人達人が出なくなった」そんな古老の嘆きとはうらはらに上達の早さにおいて、また命を賭けずに勝負できるものとして無くてはならない稽古となっていたのも事実であった。

 当時の道場内で一刀流中西道場の三羽烏と呼ばれる三人の使い手がいた。

 すなわち音無の構え高柳又四郎、平常無敵流の心法である谷神伝免許皆伝、天真一刀流寺田宗有、そしてその弟子で勝海舟に神通力とまでいわしめた天真白井流白井享であった。

 

「おいたわしや…お面頂戴」バキンッ!!「うっ参った!高柳さん、ありがとうございまし…」ドンっ。

なにがなんだかわからぬうちに高柳又四郎から面と突きを叩き込まれた門弟が突きの威力に咳込んで下がっていった、彼の口癖は打つ際に、「おいたわしや…」と言ってから猛烈な突き、面をくりだすのである。

白井は思った(流石は高柳先輩!今日の最後は先輩との地稽古で〆よう、面金にかすることは無くても竹刀にかすらせん!)なにしろ高柳又四郎は相手が出れば引き、引けば出る、寸分違わず方眼紙の様な正確さで間合いを制し、1ミリでも破れると神速で剣を飛ばす達人であった。

 この頃白井享15歳にして以前の在籍していた機迅流では敵無しであったが江戸にきてから化け物だらけの道場で打たれまくる毎日であった、しかしながら持ちまえの負けん気で三十人と二回づつの稽古を日課としていたのである。

 当然最後にしておかないと、高柳又四郎と立ち会えば後輩だろうとなんだろうと容赦ない剣が突き刺さる。

 面目を気にする先輩は立ち合わないし後輩も必殺の突きにびびっておよび腰、結果一人で稽古しているかのごときの高柳又四郎に毎回挑むのは白井くらいのものであった。

 高柳又四郎は微動だにせぬ正眼、白井は陰刀に構え静かに歩み寄り左足をすべらせ面を狙う「入った!」と思った瞬間「カツッ」とこする様な音が聞こえたと同時に喉に剣先が突き刺ささった、なんと己の剣は弾かれ、かわりに浅くはあるが高柳又四郎の突きが入る「なんの、まだまだ」浅い剣をかち上げ面を割らんがため上段に振りかぶるその時、渇いたこえで「おいたわしや」と地獄から響く様な声で振り上げた左の小手をしたたか打たれた。[切落]

 「折れたか?!」と目をやる程の痛みに思わずうずくまる白井に無情にも下段からなお

その剣先を喉に突きつける高柳の仁王立ちになる姿があった。

「おい、小僧!切落の音は乾いておろう?儂の剣を鳴らしたと思うなよ?あれは数に入れるな!」

(わかってますって…)

「後な三角矩は知っておるか?」

 「両肩と剣先の三角矩ですか?守りの基本ですよね?」

「ああ、しかし儂の工夫は違う眉間と剣先と丹田の三角矩だこれを作ると攻撃力が段違いだ、お前と佐吉郎の二人だけ特別に教えてやるから稽古相手になれるよう精進せい」

[佐吉郎というのは年下の高野佐吉郎である、後の免許皆伝で高野佐三郎の祖父にあたる]

 

「享君よくやるよね」後の千葉周作の師匠となる浅利又七郎が声をかける。

「いえ、勉強になります、しかし最後にしなければ竹刀も握れませんからね。」

 この浅利又七郎という男は大変面倒見も良く

白井にも丁寧に稽古をつけてくれていた。

 浅利又七郎の剣は高柳又四郎と違い温厚そのものであった。

間合いに入られるとみずから「参りました」と言うので高柳又四郎との力の差は実際のところはよく分からないというのが門弟達の間での噂であった。 

「あの切り落とされたあとな、突きをかわしたまでは良かったぞ、あそこから地生の一手しかねえな」

 そう浅利又七郎に言われ、彼との稽古を思い出した。[振り上げた内小手を切れるのは浅利しかおらぬとまで言わしめた秘剣の持主で北辰一刀流千葉周作の師匠になる男である]

 その稽古の内容はというと、白井が陰に構えて右足より踏み込み面を打とうと振りかぶる刹那ピタリと右の内小手に剣をつけられたのを思い出した、思わず右足を引いて陽の構えをとったが時すでに遅く相手も同様に陽の構えで残心をとられていたのである。

 真剣ならざっくりと橈骨動脈まで刃がとどいてであろう。

「浅利さんの剣、釣竿をヒュンと振るみたいに速いですね」

「ああ、あれね享君みたいに膂力があれば逆に届かぬ速さだろ?なに簡単だ、しゃがんだ拍子に剣がフワリと宙に浮いてるだろ?そこをそっと小手に差し込むだけだ、剣先が上を向くように剣をスッと置くのがコツさ。」

(ああ、沈身をかけると残りに浮力がかかるあれか、年とったらやってみればよいかな)

「おいおい、力を過信するなよ?すぐ落ちるぞ、それにな、こんなもん初手も初手、いろはの い だぞ」

白井はなんだか分かったような分からぬような気持ちで、基礎稽古を繰り返しみようと思った。

 

そうして数年の間、病の日も稽古を欠かす事は一日もなく精進していたがある時師匠の中西子啓が47歳で死去してしまいそれを機に武者修行に出ることにした、白井享18歳の時である。

 

 この頃白井享の剣は天賦の才に加え人の3倍の稽古量とあいまってほぼ敵無しの腕前になっていたが幾人か天狗か妖かと思わずにはいられない強者も中にはいた。

 武者修行中の馬庭念流の樋口定輝と対戦した折そくいづけ、という奥義を喰らい面食らった(ピタリと刀に張り付いた樋口の剣は動く方向に張り付いたまま離れやしない)

白井享脇構えにて正眼の樋口定輝に対し、下方から樋口の右小手にスッと剣を入れる、樋口もすかさず裏を守って太刀を動かした、その刹那わずかに裏に僅か気をやった時にできた隙に乗じて相下段、正中線の取り合いの最中、双方相突きとなった、その後が凄い、飯粒一つ間に挟んだ圧を変えぬまま推しも引きも同じ形のままジリジリ刀身が頭上に迫る、(まずい離れぬ!?)咄嗟に壁際に押し込まんと数歩押し込んだところ壁際まで押し込まれては技が効かぬと樋口は竹刀を左に挫いたその時、白井享の剣は脇構えに戻されバランスを崩した瞬間一重の身にて真上から剣を振り下ろす、樋口にすれば白井の剣と半身が消え去ったようなもの、すぐに右上段に構えて迎撃しようとしたが白井享の剣は右小手を打ちさらに左足を送り首元を狙って残心をとった。

 「危なかった、実力的にはかなり、際どい、脇構之付けは対念流の必殺技であったか、これ無くしては勝ちは無かった…」

(それにしても一刀流組太刀は頼りになるなあ他流のメジャーな技ほとんど攻略している、これは武者修行には必携だ。)

この対戦を機に白井享は格上に対しても出るという選択を研究し始めた、ガムシャラに出るのでは無い、相手が出るその時を見計らうのである、その結果八寸延金という技が開発された、間合いの主導権を握る事でタイミングの主導権を握るという物理的な世界から心法の世界へ変える架け橋みたいな技である。

 

実際、隙もなにも考えず八寸正確に出ると敵の硬直が感じ取れるのであった、前足に続き足も揃えて動く。[これだけでも充分勝てるがさらに敵の心中に出る、おこり、を捉えてその刹那前に八寸出るのである、そうすると敵の心中まで硬直しその間に技はかけ放題百発百中である白鳳流秘中の秘八寸延金 岡林将玄談]

 

 さて、この八寸延金を携えて一刀流組太刀をふるうとついに、誰一人かなうものが居なくなった時、あれから八年、江戸の懐かしい中西道場に舞い戻り、いざ妖怪達と対峙せんとした「今ならあの化物じみた人達も勝てるだろう」

そう思い道場に顔を出すと化物どころか当時の俊英も膝や腰を痛めたり指導に回ったり形無しであった、頼みの浅利又七郎や高柳又四郎も出払っており(高柳は生家と関連の深い戸田流の強盗を引っ捕らえる旅中)千葉周作が幾らか、こましである程度であった。

しかしながら実は他人事で無く、白井は自身の動きにかげりを感じていた。